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Essayエッセイ

エッセイ「心の音」

2021 年 12 月
航海

久しぶりに海の上へ出た。
にっぽん丸クルーズ船だ。

新型コロナウィルスの影響によって、それまで続いていたクルーズ船での演奏が2年間なくなった。
日本における新型コロナウィルスの始まりは、ダイヤモンドプリンセス号の惨事であった。
それだけに、多くの人の印象の中に、あたかもクルーズ船が怖いと言うような印象をつけてしまったのかもしれない。私たちをアテンドしてくださったスタッフの方はそんな話を私にしてくれた。

だからこそなのか、今回にっぽん丸に乗船するにあたって、度重なるPCR検査、体温測定、細かい質問状、手指の消毒があり、さらにひとテーブルに基本一人しか座ってはいけない(同室同士以外)など、その他諸々非常に厳しいルールが定められていた。

クルーズ船が沖を離れるとき、船の警笛が鳴る。その音が私はとても好きだ。心に染みる。初めてクルーズ船に乗った時から、毎回、その哀愁帯びた音に胸は熱くなる。とてもセンチメンタルになる感情。ゆっくり、ゆっくりと船は沖から離れ、広い広い大海原に向かって進んで行く。
緩やかに船を揺らしながら、耳をすませば聞こえる波の音が心を浄化していく。
海は美しく、海は怖い。大自然は海でも山でも、信じられないほどの美しさを持って私たちを魅了し続ける一方、時には逃げることのできないような恐ろしさで私たちに向かってくることもある。
そんな大自然は、私たち芸術家にとっては師と仰ぐ大きな存在だ。
昔、作曲家の武満徹さんが、大自然の醸し出す美しいメロディーには到底かなわない、鳥のさえずりや木々のざわめきには到底かなわない、そんな話をしていたことを思い出す。美しい自然を見るたび思い出す言葉だ。
穏やかな波に揺られながら、私は甲板に出て、地平線を仰ぐ。遠くに見える山並みの緩やかな姿。
なぜか、波に揺られながら私は時間の流れと言うものを考える。
そう、時間や空間には、実はゆがみやひずみがあると言う。海に出たときにそれを感じるのが不思議だ。時間は平等ではないと私は思う。長く感じたり短く感じたり、感じるだけではなく実際、時間はゆがんでいるに違いない。
今、波の上で過ごしているこの時間、私はぐんと伸びたゴムの上に座っているような気がする。ゆったりとゆったりと時間が流れていくために、私の思考もゆっくりと過去を考え、今を見つめ、そして未来を想像する。
人類が生きているこの地球と言うものが、惑星なんだと感じるのもまた、海の上だ。
夜になると空も海も真っ暗で、真っ暗な空間の向こうの方に他の惑星が輝いている。あ、この地球もまた宇宙に浮かんでいる惑星なんだ、と。

さて、今回、にっぽん丸が向かった先は屋久島であった。
屋久島で私も下船して、大自然の中でバイオリンを奏でる予定であった。しかし天候が荒れ、波は白波が立ち、強風にさらされながら、にっぽん丸は大きく揺れていた。
もう、すぐそこ、、、スタッフも甲板に出てロープを外し始めた。屋久島に、泳いでさえ渡れるのではないかと思えるほど近くまで行った時に、静かな船長のアナウンスが流れた。それは、強風のため屋久島に上陸することを諦めると言うアナウンスだった。
乗客のきっと全ての人たちが、がっかりしたことだろう。スタッフも皆がっかりしたことだろう。人は誰でも、誰かをガッカリさせたくないと思う。そのことを背負って、船長はつらく過酷な決断をしてくれたのだ。それは他でもない、私たちの命を守る、と言う何よりも大切な使命を帯びていたからだ。
 
例えば山を目指す人が登頂近くにまで登り着いた時に、天候が荒れ下山することを決断するドキュメントを何度も見たことがある。悔しい場面だ。プロであればあるほどその悔しい決断を勇気を持ってする。悔しいから行ってしまおう、行ってしまうのではないか、ちょっと無理をしてでも頑張っちゃおう、そんなふうに思った時に残酷にも人の命が奪われることが多々あると言う。
山も海も、その美しさで私たちを感動させる反面、突然残酷な変貌を遂げて牙を向くことがある。つらい決断をする勇気、私は船長を尊敬した。
 
ゆったりと船は方向を変え本州へ戻っていく。悠々と、潔く、誇らしく。
また日本丸に乗りたい。私の心は静かに熱くなった。