去年のデビュー50周年が終わった、と色んな取材で話題にしていたら、51年目の今年がいつの間にか後半になっていた!
年齢を重ねて行くと、こんなにも早く時間が過ぎるものなのだろうか。不思議でたまらない。
そういえば以前、宇宙の時間軸の話を聞いたことがあり、時間は平等ではないし規則的でもなく、歪みがあり空間によっては”ねじれ”もある、ということだった。それ以上詳しいことになると私にはわからないが、、、。
しかし、だとしたら、私の身の上でどうやら”加速的”に時間が早まっているらしい。きっと、だから私は日々走り回され、倍速で動かざるを得ないのかもしれない。そう考えれば大いに納得だ。
さて、そういう考えに基づけば、もう私には残された時間がそんなにない、ということになる。自分では少なくとも、そのように感じている。
同年代の友人もちらほら他界したという知らせを聞けば、切なく寂しく儚い気持ちになる。
若い頃は、自分の命に限りがあるなんて考えたこともなく、自分も友達も家族もみんな、永遠に生きていられるような呑気な気持ちで過ごしていた。しかし、流石にこの年齢になると、「あと何年なのかな」と考えることがしばしばある。
ストラディバリウス・デュランティに出会ってからは、この楽器をこの手で奏でられるのはいつまでなのだろう、とメランコリーになる。人の寿命は誰にも推測できない。そう考えるともう時間の問題かもしれない。デユランティの”顔”を見つめながらなんだか胸が締め付けられる想いだ。
弾きたい、弾いていたい、他の何を省いてもデュランティと共に音楽を奏でる時間で満たされたい。
だから私は、ひとつづつ、日常生活から行動を排除していく。
歩くことが勿体無くて、小走りから単に走るという事態に変化していったのも、そんな心情からだ。
昔はよく外食をしていたが、今は親しい友人か知人か、または兄とかしか時間を持たず、自炊と言ってもかなり時短でサッと作ってサッと食べ、食べながら洗い物も済ませるのもそう言った理由からだ。
ゆったりとどこか旅に出たい〜、とまえはよく思っていたが、今はその時間をヴァイオリンと共に過ごしたいと願う。
はたからみれば私は変人、、、かもしれない。
またはいつもヴァイオリンを練習して演奏会に走り回って、大変そうだ、と思われているだろうか。例えるならばゲームの好きな人が四六時中ゲームをやっていたいのと、恐らく同じように、私はヴァイオリンを鳴らしていたい。ヴァイオリンを触っているのが最も幸せで、楽しくて嬉しい。
まだこの先、省けることがあれば省こうという気持ちがある。
ジムに行ったり泳いだり身体が故障しないためのケアは、仕事の一環だから省けないし、寝る時間も省けない、、、。だから走れるところは走る。
時間は大切だ、という実感は日に日に増していて、比例してどんどん速度を速めながら過ぎていく私の人生。。。
ただ、時間が止まる時空間を、私は知っている。
ステージの上、だ。
ステージに立ち音楽が始まると、通常の時間は止まり、別のいわば『音楽時間』が動き始める。不思議といつもの時間の概念がなくなり、つまり意識の中で時間は止まってる。時に過去にさかのぼり、未来をのぞきこむ。
ステージで開放される。そのために、日常が倍速で動くのかな、、、。