映画『国宝』をみて今一度、表現とは何か、考えることが出来た。しか映画『国宝』では二重の演技、役者が演じる人物が、更に歌舞伎の中での配役を演じるところを、繊細に演じ分けている部分に益々惹きつけられて、3時間時間を忘れて見入ってしまった。このせっかちな私が、、、。
ステージに立つ仕事、パフォーマーは特殊な世界を生きる。改めて実感させられた点だ。
演奏家、舞踏家、演劇役者、そして歌舞伎役者など。
客席には例えば2000人の4000の眼が見つめるようなステージ。そこは崖の際のような怖さ、雲の上ほど幸福で、宇宙に投げ出されたような心細さと淋しさがある空間だ。
私は物心ついた頃からステージに立っているが、幼い頃はそんなことは感じなかった。ステージに立つことの、そんな怖さを知ったのは、自我が芽生えた頃だったと思う。
そもそも幼児というのは、天真爛漫で無垢だ。ただただ楽しい、嬉しい、ヴァイオリンが好き!だけで成り立っていた。邪念もなく怖さも無く、自分がもし失敗したら誰かに迷惑をかけるかとか、誰が悲しむか、怒るか、困るかなど他人の心の中を探るようなことは、幼児はしない。それが逆に強みなのであるが。
物心ついて、自我が芽生えて、あれやこれや自分の行いに関わる人間関係に気を遣ったり気にしたり、、、そうなってくるとストレスが溜まったり、集中出来なくなったり、緊張したり不安が増したりする、というわけだ。
さて、ステージ人間は、私はステージの上で生きる、という感覚をもつ。少なくとも私は、そうだ。
ステージに立つと、日常とは別の世界の時計がまわり始める。
演奏家の場合はそれが、ある時はチャイコフスキーの世界、またはベートーヴェンの世界、またはバッハの世界、クライスラーの世界、、、、と様々な作曲家の数奇な運命を共に背負いながら魂を復活させる。その異次元の世界をどうやってこのステージの上に広げるか、展開させるか、命を与えるか、だ。
ステージの上では私自身、決して日常の感覚に戻ってはならない。日常、つまり現実だという意識を取り戻してしまった瞬間に、魔法が解けてしまう。ステージの上で展開していた全ての夢が突如消えてしまう。だから自分自身をも夢から覚めないように、、と願いながら異次元の世界へと一歩踏み出すのだ。
それがとても心地良く、いわゆる『ゾーンに入る』感覚に陥った時、無性の快感がある。これを味わってしまうと、ステージの魅力に私たちは取り憑かれてしまうのだ。そこは『生きている実感』と『あの世の感覚』が入り乱れて時に交差するような世界、、、。
そしてそのものをステージ目線から映像化されたのが、映画『国宝』だと感じた。この中で「演じるとはどういうことなのか」というテーマを深く掘り下げようとしているように感じる。
ステージの上からみえる景色は、確かに多くの観衆・聴衆。浴びる照明は眩しくも空気が入れ替わったような別世界感。
その照明を見上げて「あそこから誰かが見てるんだ、誰なんだろう」という台詞が心に残る。