私が初めてクルーズに乗ったのは13〜4年前になる。
最初は確かにっぽん丸、そして程なくして飛鳥II、何度となく船上で演奏する機会をいただきながら、最近ではオーシャンフジも加わった。
初めてのときの印象は色濃い。まだ母が生きていて、その母は苦しい闘病中だった。入退院の繰り返しがちょうど始まった頃だ。あの時、私はなんとか母を海の上へ連れ出せないかと不可能な現実を追い求めていた。「ね、一緒に乗ろうよ、お母ちゃま、きっと気持ちいいわよ」
母も一瞬顔が綻んで嬉しそうな目を私に向け心は動いていたようだが、何しろ身体がとても辛い時期、専門病院から遠く離れることは、医者からの許可が出なかった。海の上で潮風にあたると病気が改善するのではないかと、そんな根拠のない想像を私は膨らませていたのだが、実現に至らぬまま、私はひとりクルーズ船に乗った。
初めてのクルーズ船での演奏だったので、色々不安があったことも事実だ。
揺れはどの程度あるのか、その中で私は弾けるのか?酔ったらどうしよう、酔い止めはどんなふうに効くのか?海上での生活はどんななのか、お風呂は?食べ物は?着替えは?などなど。
母への心配をおきざりに私は乗船する日になった。いざ乗ってみると出港の瞬間から、私は心が震え、それまで味わったことのない郷愁が押し寄せて来た。出港の合図となるクルーズ船の汽笛、ボーッという切ない響きを聴きながらジーンと染み渡る想いが湧き上がり、なんだかいたたまれなくなった。
たまたま母が入院していることも重なり、母との幼い頃からの思い出が走馬灯のように湧いてくると熱い涙が、自然と込み上げてくるのだった。
あの思いは、何度もクルーズ船に乗るようになっても、必ずや胸に沁みてくる熱い想いなのだ。
幾たびも私はクルーズ船での仕事を頂いて様々な航海に参加させて頂いて来て、今年はデビュー50周年、となる。
この節目の年にも飛鳥Ⅱ・『世界一周クルーズ』の一部分に参加させて頂いてコンサートを行ったことはとても嬉しいことだった。
今回は私自身9日間、神戸から乗船しシンガポールで下船、そのまま飛行機で日本へ、というやや長めの行程だった。スケジュールの調整が可能だったため、乗船出来たこの海の上での日々。
甲板に出ると潮風に吹かれ、深呼吸が気持ちいい。ゆったりと波打つ水面の表面は太陽に照らされて眩しく輝く、その様子を見ているだけで心は癒される。
日頃の忙しない自分を反省しながら、『生きる』ことに度々考えが及ぶのは、私だけなのだろうか。
毎回感じる。
船は不思議だ。
時間の流れがガラリと変わる。
ゆったりと時を刻む揺れのリズムを身体で受け止めながら、過去を想い出し、過ぎ去った日々を愛おしく反芻するのだ。
さらに現在を感じ、この先の人生を考えて「生きている」ことの奇跡を、私は深く感じる。
大自然の海原にポツリと浮かぶ大型クルーズ船。この船がどんなに大きくとも、いやこのクルーズ船がとても大きいからこそ、改めて海の大きさに何度も驚嘆するばかりだ。
甲板の周りを朝晩ウォーキングすることも日課となった。歩きながら目の前に見える景色は大海原と大空、周りの島々が見えない時には本当に水平線しかない。しかし水平線と海と空、波と雲、その様子は刻々と変わり、波の大小、空に浮かぶ雲の変化が不思議なほど動的に感じる。
陽が落ちれば星々が「ココは地球だ」と教えてくれる。あゝ、地球もまた星なのだったな。綺麗な星、、、身近過ぎて気が付かなかったように、「今とても美しい星の上に生きているのだ」と感動を覚える。こんなに青く美しい星に住まう生き物である人類、戦争なんてなくなればいいのに。