いよいよデビュー50周年記念コンサートが幕開けする。その初回が、12月のプレコンサート、一般にはあまり知られてない作曲家イザイの無伴奏コンサートなのだ。
ベルギーの作曲家ウジェーヌ・イザイの無伴奏ソナタ全6曲+未完成作品。
イザイはバッハを敬愛しており、バッハの無伴奏バイオリン曲を全曲聴いた後、感性が刺激され、一晩で全6曲の無伴奏バイオリンソナタの構想をほぼ思いついたと言う。
私はこのイザイに取り憑かれて40年ほど経つ。イザイは、決して易しい曲ではない。むしろ難曲と言えるほどのだいぶ変わったテクニックがふんだんに考案されており、しかしながら、テクニックのための曲ではなく、極めて魂の奥底を掘り下げたような哲学的な作品なのだ。完成されているこの6曲のバイオリンソナタは、1曲1曲が強い個性を持っており、まるで全く別の作曲家が作曲したほどニュアンスの異なる作品に仕上がっている。それがとても魅力的である。
私がこの曲に出会ったのは確か高校1年になった時だったと思う。先輩の演奏するイザイの第6番を聞いたとき、しびれるほどかっこいいと思った。さらに別の日、別のバイオリニストが演奏した第3番バラードはしばらく興奮が冷めやらぬほど私の感性を刺激した。私はこの時から、イザイを愛するようになった。
私がまともにこの作品に相対したのは20歳の時だった。20歳、それは私がバイオリニストであることに耐えきれずに大きな壁にぶち当たり、そして挫折に落ちたどん底の頃だった。4番に見られるようなイザイのすすり泣き、嘆きのメロディや怒りのエネルギーが私をそれまで以上に惹きつけた。
いちど弾き始めると、しかし指が筋肉痛を抑え切れないほど困難な指遣いやら不思議な音の羅列、その楽譜を読むだけでもへとへとに疲れてしまうほどだった。だからこそ、私は面白いと思った。イザイの楽譜を目の前に1つずつ1曲ずつ探求し、究明し、そしてその世界にたどり着くと、そこは驚くほど、自分自身の心の中であった。
自分の心の中。それは当時私にとって暗闇以外の何者でもなかったからだ。目の前が見えないから、光がないから、手を伸ばして足を探って、どこかへ行こうとするような、1番の冒頭に展開される恐怖におびえるフレーズ。声を出して、叫んでみるような高音域。全作品に静かに流れる寂しさ。悲しみに泣きわめく重音のff。そして1人孤独を味わうppの繊細なささやき。そんな複雑な性格のイザイは、当時の私自身だと思った。だから私はイザイがたまらなく好きになって、もうこの曲と別れられないと思った。
確かに私が挫折したあの時、私のそばに寄り添っていた曲はバッハとイザイだった。でもバッハはあまりにも崇高であり、私にとってまぶしすぎる存在だった。一方イザイは、というと、ぴったり私の横に張り付いて離れないようなところがあった。無伴奏でこそ表現できる心の叫び。身体がよじれるほどの悲しみや苦悩、ときに怒りであり、絶望であり、そしてたまに見えるほんの少しの希望の光を大げさに喜ぶほど、心の中は優しさに飢えているというその心情の表現。
全6曲、そして今ごく最近になって発表された未完成曲。この未完成作品は初め楽譜を読んだとき、何がなんだかわからなかった。「これはイザイでもなければ、楽譜でもない。なんでもないんじゃないか」そう思って、一旦は自分のそばから離した楽譜でもある。しかし、それからまた数ヶ月経って、私はこの楽譜をじっと見つめた。何か言いたげだ。そんな気がして、少しずつ少しずつ歩み寄ってみた。この未完成作品。今では、私の心の中にすっぽりとはまり込んだイザイが残した小さな命でもある。
改めて、来年から始まるデビュー50周年。
そのプレコンサートとして今年12月、私が選んだイザイ全6曲+未完成曲。聴くにも困難なこの曲を「皆さん是非聴きにきて!」と安易には言えない。決して楽しい聴きやすい曲ではないから。
何かに悩んでいる人、悲しみの中にいる人、怒りや絶望に混沌としている人にこそ、この無伴奏コンサートを聴きに来て頂きたいと願う。そんな気持ちで、プレコンサートは12月20日と22日、東京と兵庫で行われる。