「いけばな」というものを初めて体験した。もともとのイメージとしては華やかで、豪華な草花の存在であり、それぞれの花の個性をどのように調和させるか、なのかなあと漠然と感じていた。
今回、友人が企画した「花を生ける会」に誘われて、ちょっと覗くだけのつもりでふらりと参加してみた少人数の「会」。
私はやったことがないから、人様のなさることを後ろから少し見学させていただこう、、、と思って少しドキドキしながら顔を出した教室。
華道家の上野雄次さんは、「いけばな」とはおっしゃらず、「花いけ」とおっしゃる。そこにあるこだわりは、そのポリシーを伺うにしたがって大変納得のいくものになる。
見るからに、いかにもアーティスト!というざっくばらんな身なりをなさったお方で、お顔立ちはどこと無く日本人離れしている彫りの深い印象。
飾り気のない率直な印象をオブラートに包むことなくズバッとおっしゃって私たち受講者をドギマギさせるような場面もあるが、それが逆に感じ良く、初対面の壁をサラリと取り除くことになる。
まず最初にすることは、と一通りやって見せて下さる。シンプルな、ささやかなる花一輪、器に支えられ観る側へ語りかける健気な姿に心がザワッとする。
さあ、感じるまま生けてみなさい、と。
多種多様に置かれている多くの草花の中から、自分の琴線に触れた「この一本」の存在を選ぶ。花であっても草木であっても構わない。自分に問いかけてくるように感じる一輪。自分自身を投影するかのような「存在」を見つける。
なぜ一輪の花なのか。
そこに華道家上野雄次さんのポリシーが見えてくる。
例えばステージ上の演劇で、「大切なことは大勢が出てきて語らない。たった独りがスポットライトを浴びて語る。印象的に」上野さんは一輪を人間独りに例えて、何かを「告白」させる。それこそが「生きざま」一輪の花は一人の人間の人生そのものの姿。自分にとって大切なメッセージを、花と同化して物語らせる、のだ。
それはヴァイオリン演奏と同じだ。
演奏は「語り」であり「告白」だと私も常々思っている。無伴奏で、がらんとした何もないステージに独りでポツンとたち、心の中にある大切なメッセージを音に託す。コンチェルトであっても、語り始めるのは「独り」であり、周りのオーケストラが支え、共感、会話してくれる。
ピアノ伴奏でも然りだ。それは「独白」なのだ。
さて、花いけ、に話は戻る。
選んだその「一輪」を引き立てる、又は同調すると感じた器を選ぶ。
その器や壺に、スレスレまで水を入れるのがまた、上野流なのだ。水にはこだわりがあるためだ。
日本人は水を様々な角度で感性に取り入れている。水をさす、水もしたたる(いい女)とか、心に潤いがある、心が乾く、気持ちが枯渇してるなどの表現、、、、水は当然生きるために飲む必要不可欠なものであるが、生きとし生けるもの、心身ともに無くてはならぬもの。だから草花を生けるにあたっては水の存在はたっぷりあることがまた表現につながる。
そして一輪の花を支える「沿え木」が繊細なバランスを安定させる無くてはならないものだ。小さな「沿え木」は細い木の枝から選ぶ。器と草花を安定させるために器の内寸とピッタリ合うように調整して草花を支える。それらによって草花は空間に生き生きと、まさに「生きようとする」一輪の花がエネルギーを放つ。
そのバランスも大事である。バランスは草花と器、だけのバランスでは無く、それを取り巻く空間とのバランス、でもある。
まとう空気を花と器に調和させ、それで初めて花が生きる。目に見えなくとも空気はとても大切なのだ。呼吸するためだけのものでは無く、空気もまた一輪の花のメッセージに関わりを持つ。
素晴らしい上野雄次さんの花いけの時間、多くを学ばさせていただいたひとときだった。