1. Home
  2. Essay
  3. ウクライナに平和を

Essayエッセイ

エッセイ「心の音」

2022 年 4 月
ウクライナに平和を


信じられない現実。
2月24日から、ウクライナをロシア軍が侵略している。こんなに長引いて美しい街並みは見る影もないほどめちゃくちゃに破壊されてしまった。歴史ある建物も、教会も美術館も、学校も何もかも。
激しく残酷な惨劇。
これはフィクションではない。
ニュース映像は長方形の枠の中の悲劇ではなく、今まさに現実として起きている無秩序な銃撃だ。
市民を狙い、子供たちまで標的にされて、平和な生活が根こそぎ剥ぎ取られてしまった。
避難する人々の長い長い列にも非道な銃撃は撃ち込まれている。
他国へ避難しようと何時間も歩き続けるお年寄りや子供たち。ウクライナを愛し、故郷を離れたくない想いを自ら剥がして、破壊された街を後にする人々の想い。避難出来なかったら人々は地下に身を寄せて、恐怖と空腹と寒さに身体を縮ませている。
こんなことがあっていいはずがない。
世界中の多くの人々が「戦争をやめろ!」と叫んでも、止めることができないのはなぜだ。
人類というのは、こんなに低レベルの生き物だったのだろうか。高度な文化、文明を持ち、美しい地球という星に住まう高等生物だったのではなかったか。
情けなく、悲しく、自分の無力をもうらみ、なすすべもない。
私たち人類は過去の過ちを学ぶことも出来ないような生き物だったのだろうか。
しかしこれは、ウクライナとロシアの戦い、とシンプルには言えない。
ロシア、と一括りには語れないのだ。ロシア国民の反戦を叫ぶ人々がニュースで映し出される。その方々は次々に拘束されていく。軍人に囲まれて棍棒で叩かれながら。
他国からは「ロシア人」ということで肩身が狭く、味方を失い、ロシア政府からは反戦を口にするや否や激しい暴力の末捕まるのだ。口にしなくとも、ただ白い紙を手にじっと立って心で反戦を訴えている男性も拘束された。若い女の子も、小さな子供も、反戦の行列に並んでいたら捕まって連れて行かれた。
現実を知って、私たちと同様にウクライナに平和を願うロシア国民が沢山いるのだ。そんな方々の立場がどんなに苦しいかと考える。
反戦を訴えて拘束されて酷い拷問を受ける心あるロシア国民は、逃げ場がない。それでもなんとか他国へ逃げることが出来れば、2度と母国へは帰れないのかもしれないし、大切な親、親戚や友人を母国へ残したまま引きちぎれるような思いで他国へ逃げる方々も居る。しかもそこでは味方がいない。どれほど辛い立場に居るか考えると、もしかしたらどの国の国民より四面楚歌の孤独な中にいるのかもしれない。
だから、端的に「ロシア NO」とは言えず、NOなのは国の指導者とその周辺の集団だ。
何も出来ない私たち。
何か出来ることはないかと、オロオロして時間が過ぎていく昨日、今日、明日。
ウクライナに平和を!ウクライナの銃撃をやめて!誰か、ロシアの指導者を止めて!と心で叫ぶしかない私。
ヴァイオリンを弾く。
バッハに祈りを込める。
誰に聴かせるためでもなく、ただ祈るためだけに、自分の部屋で弾き続ける。
だからと言って何も変わらなくとも、平和を願う想いを内側に秘めておくことは出来ない。
何百年も前から人類が願っていた平和。世界中が平和になりますようにという願いは、まだ叶えられない。