Essayエッセイ

エッセイ「心の音」

2019 年 7 月

このところ 高齢者ドライバーによる悲惨な事故が目立つ。
ニュースを見るたび、事故がおきたときのドライブレコーダーの映像が流れるたび、まるで自分が当事者のようなショックを覚える。
原因はアクセルペダルとブレーキペダルの踏み間違えが多く、または持病の発作などだ。
車の運転は我が千住家では当たり前のこととして全員運転した。
車は小さい頃から両親の運転する助手席に座ってまるで自分が運転してるような日々で育った。
父は「生まれ変わったらカーレーサーになりたい」と口癖のように言っていたほど運転が好きだったし、母は私が12才でプロデビューした時から私を乗せて学校からコンサート会場へ~200キロメートルくらい離れたところまで~、コンサート会場から自宅へとどんなに遠い距離も事故ひとつなく運転するほど、両親ともに運転が上手かった。二人の兄も同様、学生時代から早々と免許をとり、運転は若い頃から上手かった。
自分で言うのも図々しいが私だって車の運転には自信がある。それに大好きだ。
しかし最近思う。
事故おこしたかたがたの中には運転が日頃からうまく自信もあった方々が多い。恐らくそんな自信は慣れとなり過信となり、それは高齢ドライバーのみならず、年齢は関係なく、油断からくる過失が大きな事故に繋がったのだろう。
他人事ではない。
疲れてるとき、何かを悩みながらハンドルをにぎるとき、ふと、自分が今凶器となりうる恐ろしい機械のハンドルを握ってアクセルに右足をのせているという現実を自覚していない瞬間があるのではないか。きっと、誰にでも。
よくよく考えればゾッとする話だ。
身を引き締めてハンドルを握らなければならない。
移動手段をタクシーに代えてみても、もらい事故の場合はふせぎようもない。
また、最近注目の自動運転はいかかなものか。
今から先の未来にむけて、電車も車もコンピューター制御された自動運転の時代到来だ。そんなに信じて大丈夫なのかなといぶかしくおもうのは私だけか?
コンピューターに100%まかせて絶対に安心とは思えない。
そんなことを考えていた矢先、自動制御されて安全なはずの電車にトラブルがおきたことも記憶に新しい。
その筋の専門家によれば、コンピューターで自動制御されている車や列車は遠隔操作もされ得る、犯罪に繋がりかねないという。
そもそも、便利さを追及するあまり大切なものまで削ぎ落とされてしまい始めている感がぬぐえない。
私はスマホだって嫌いで未だにガラケー!ときめているのに故障のため機種変更しに行ったらいつのまにかガラホなるものにかえられてしまった!
なんなんだ、ガラホって!ときくと「見た目はガラケー、中身はほぼスマホなみ」 といわれた。
そんなのいりませんからシンプルなガラケーください!と言ったら、いまはもうないという。G5出現のためガラケー用の電波は無くすらしい。
がっかりしながら今私はガラホってのを持っている。
便利過ぎる世の中は、人間が人として生きていく感覚を奪っていくように感じる。