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Essayエッセイ

エッセイ「心の音」

2024 年 2 月
今を生きる

20代の頃、フランクフルトから飛び立ったばかりのルフトハンザ機の左エンジンから火が出たことがあった。
私の席はちょうど左翼の上の少し前あたりで、オレンジ色のあかりが、初め火だとは思わずになんだろう?とぼんやり眺めていた。
程なくしてCAの方々が前へ後ろへと慌ただしく走り回る姿があり、ああ、これは何事かトラブルなんだなと気がついた。
もちろん私以外の乗客も口々に何か教え合ったり左エンジンのあたりを指差している。
みるみる周りが騒ぎ出し、これはきっと大変なことなんだと思った私は、こんな時はきっと何が書き残さなければならないのではないか、と考えながらも、身体は動かなかった。
機内アナウンスがあった。
トラブルが発生したため、燃料を捨ててからフランクフルトに引き返す、と言う内容だった。
飛行機は燃料をすてるために旋回し始めたようだった。アナウンスの通り、その後の飛行機は同じ場所をぐるぐる旋回してるのがわかった。なるほど、着陸のときに炎上しないように、こうやって燃料を捨てるんだなと理解した。そして、アナウンスの声が落ち着いていたので、私は単純に、きっと大したことではないんだ、大丈夫なんだなと安心した。
その飛行機がフランクフルトに無事に着陸すると、乗客の中から自然に拍手が湧いた。みんな安堵を声に出し、おとなしい日本人以外はみな、それぞれが喜んだ身振り手振りで感情を表し、互いに握手している乗客もいた。
機体が定位置にとまろうとしている場所には沢山の消防車、救急車が寄ってきて私達の機体を取り囲んでいた。そしてカメラを手にした人々が左エンジンのあたりを仕切に連写していた。その部分、一体どうなっているのか見たくて仕方なかったが降りるまで事態は把握できなかった。
やっと降りることができて機体を見ると、左エンジンの内側が焼けて真っ黒になっていた。いわゆるバード ストライク、鳥がエンジンに巻き込まれてしまってのトラブルだった。私達乗客は、その後フランクフルトに数時間待機した後、別の機体で目的地へ向かった。
私は機体のことが全くわからないが、その後の話だと、エンジン一つ動かなくなっても飛行機の大型機種では大丈夫なのだと知らされた。それでも私にとっては忘れ得ぬヒヤッとした記憶となった。

2024年、年が明けてまもなく、日本で元日の夕方に起きた石川県能登半島地震、大津波警報。「危険!今すぐ逃げて!」と叫ぶアナウンサーの方々。騒然となる中、正月ムードはひっくり返る事態になった。初めのうち、情報が入らないために被害は少ないと思われたのも束の間、次第に次々と被害が明らかになってくる。
テレビはどのチャンネルも大地震と大津波の被害情報、新たな揺れ、新たな津波注意報、危険への注意喚起。そのニュース映像が突然切り替わり羽田空港が映し出されたのが2日の夕方だ。何だかわからない映像にアナウンサーも戸惑いながらの解説。大きな火の玉のようなものが映像の中央を右から左へ走り抜けた。
どんどん日が暮れて暗闇の中、はっきり映し出された大きな燃える火の塊。
アナウンサーはしきりに、情報が来てないので何が起きたのか分かりませんが何かが燃えているのでしょうか、、、と、目の前に映し出された火の塊を描写するのみ。
そして大惨事。
まさか、あの火の塊がJAL便とは。
まさか、その中に乗客乗員が乗っているとは。
そして、JAL便に乗り合わせた全員の命は助かったのだと言う奇跡と、衝突した海上保安庁の機体の方々は残念ながら機長以外亡くなってしまった、と。
元日、2日、と立て続けに日本に起きた大惨事。

一瞬先のことは誰にもわからないと言うことを今更思い知る。自分の身に起きていても不思議ではなかった、と誰もが身を縮めた二つの大惨事。
もしかしたら私達人間は、いや生きとし生けるものは、一瞬一瞬「生と死」のギリギリの線上を綱渡りしているのかも知れない。生きるも死ぬも全く同じラインで時間が動いているのかも知れない。人生とは、そう言う奇跡の連続なのかも知れない。

20代のあの時の自分が甦った。機内にいて寿命も運命も自分の思い通りには決してならないのだと感じとった自分。
生きると言うことは、瞬間を選択しながら、たまたま生かさせてもらっているのではないか。今こうして生かされていることの奇跡。そして感謝。畏れ。
感謝を胸に始まった今年、今日を明日へと丁寧に繋げていきたい。