横浜の青葉台。
1968年、6歳当初、世田谷から横浜に引っ越した当時は山だった。
青葉台の駅から子供の足で歩いて20分、山を登るように坂道を上がって行った桜台に我が家が建った。
家の裏は実際山で、狸や蛇、山犬がウロウロしていた。部屋の窓を開けていると蛇が入るから閉めなさい、と日常言われていたのも自然なことだった。その山を兄2人と共に探検するのが私は好きだったし楽しかった。
しかし通っていた学校までは乗り継ぎ乗り継ぎで約2時間。それで足腰が鍛えられたかもしれない。
走って学校に行き、走って家に帰っていたその習慣から、私は常に今でも走るようになったのだ、と考えている。
そんな我が家で私がヴァイオリンを練習するときには、家の扉を全部開けて大きな空間を作り、大きな音で練習する。それを母が家事をしながら聴いていて大きな声で気がついた感想を言う、なんと騒がしかったことか、、、。更に練習といえば難しいパッセージを何百回も何千回も行うことによって身体で覚えていくわけだ。野球で言えば千本ノック、、、スポーツなどの訓練と違うのはとにかく音が出ることだ。どんなにかご近所迷惑だったことかと今では申し訳なく、恥ずかしくてたまらない。
暑い夏にはまだ冷房の完備がなかった我が家では、窓を全開にして扇風機、タライに氷水、その氷水の入ったタライに足をつけて私は練習に励んでいた。ますますご近所様、ごめんなさい!
更に更に、あろうことか、私が一階で猛練習をしているすぐ上で、つまり家の2階では明兄がドラムを叩いた。あの大きなドラムセットが我が家に運び込まれたときには何事が起きるのかと私はびっくりしてみていた。そんな私に目もくれず明兄は嬉しそうにドラムを自分の部屋に設置すると、その日からドンシャン!ドンシャン!!と思いっきりドラムの練習をした。
こんなご近所迷惑な話は他にないだろう。寛容に我慢して見守って下さったご近所様にはお詫びの言葉もない。
そのおかげで私たちはこうやってなんとかプロの音楽家として活動できているのだ。
そのように、私はあの地で育った。
ほぼ40年近く、あの土地に根を張るように、私自身があの地点で成長し、まさにあの桜台でヴァイオリニストとして成長した。
それなのになぜ引っ越したのか、時折胸が痛む。母の悲しげな顔を思い出す度々、胸が締めつけられる。私は母を連れて青葉台から離れたのだ。一番の決め手は母の体調が悪化して、都内の病院に頻繁に通うようになったからだ。
最後の頃には桜台に、母と私の2人だけが住んでいたので、母にもしものことがあったらと考えると不安になった。頼れる近しい人はみな都内にいる。私が演奏旅行でいないときには母は1人きりでいるのだ。1人の時倒れているのではないかと、演奏旅行先から度々電話で確認したり、帰れるものなら最終列車で帰宅を急ぎ、最終フライトに飛び乗ったりした。母を1人にする時間が多いことが私が引っ越しを決めた決定打だった。しかし、、、、もう一つの本心は違う、、、。
想い出がたくさん詰まった桜台の土地。その広い家に私1人が残されたらどうしよう、、、それが心の奥底にある本心だった気がする。誰もいない想い出の我が家に1人で住むのは寂しくてたまらない、と思った。濃い想い出が壁に、空気に、床に、土地に、いたるところに染み付いていて、私は耐えられない、と悲しみを想像した。
その悲しみから逃れるように渋る母を連れて、2人で引っ越した都心で2人の生活は始まった。
しかし私の脳裏には青葉台を離れるときの母のあの悲しげな表情が、拭いきれず、新しい都心の住まいに身を置く母をチラリと見るとなんとも居心地の悪そうな様子が見てとれた。
新しい住まい、新しいマーケット、新しい土地の全てに慣れ得ずに居心地悪そうにしていた母の顔を、私は気が付かないふりをして過ごした。今にきっとすぐになれるはずだ、と。
「わたしが引っ越すには歳をとりすぎたね、、、」ある日ポツンとそう言った母の言葉が時折思い出され、胸が苦しくなる。そして母はガンで亡くなった。
私の心は青葉台に頻繁に帰る。
夢の中で、イメージの中で、音楽を奏でているステージの上で、父母の想い出の中で、祖父母との想い出の中で。
そんな今年2025年、私はデビュー50周年を迎えている。そしてそんなこの秋に、思いがけないプレゼントの知らせが横浜市から届いた。
横浜市文化賞受賞。
私の故郷・青葉台。私の全てが創られた横浜市。
ヴァイオリニストとしての猛特訓をした桜台。
悲しみも、喜びも、悔しさも、嬉しさも、、、そこにある。
国内外演奏旅行から帰ると、涙が込み上げるほど懐かしい横浜の風が、私の疲れた身体を包みこんでくれたこと、忘れない。
横浜、ありがとう!