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	<title>エッセイ「心の音」 &#8211; 千住真理子</title>
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	<description>Mariko Senju Official Site</description>
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	<title>エッセイ「心の音」 &#8211; 千住真理子</title>
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		<title>『ビューティフル・マインド』</title>
		<link>https://marikosenju.com/essay/202606/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[admin]]></dc:creator>
		<pubDate>Sun, 31 May 2026 23:00:00 +0000</pubDate>
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					<description><![CDATA[昔の映画を観る。時折、心に温もりが欲しくなると、ジーンと出来るような映画を選ぶことがある。面白く楽しい映画もまた、気持ちが開放されていくが、時折深く共感したい映画に触れるのもいい。最近観たのは、『ビューティフル・マインド [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
<p>昔の映画を観る。<br>時折、心に温もりが欲しくなると、ジーンと出来るような映画を選ぶことがある。<br>面白く楽しい映画もまた、気持ちが開放されていくが、時折深く共感したい映画に触れるのもいい。<br>最近観たのは、『ビューティフル・マインド』<br>数学者が主人公の映画だ。<br>私は、父が数学者だったからか、幼い頃から数字にとても興味があった。算数、数学の科目がとても好きだったこともあり、この数学者の映画は特にシンパシーがもてた。</p>



<p>今までに何回と観て、何回と涙し、心が満たされ感動しながら、気持ちも新たに「自分の目指す道をたゆまず努力しよう」とたびたび燃えるのだ。今回も、久々に心満たされ、気持ちも新たにリフレッシュされた。</p>



<p>主人公は実在した数学者であり、最終的にノーベル経済学賞を受賞している。<br>しかしその人生は信じられないほど波乱に満ち、その中で数学を愛し続けたジョン・ナッシュという数学者が素晴らしい。<br>&#8220;天才&#8221;というのは間違いなく彼のことをいうのだろう、と疑いの余地もなく、しかしだからこその孤独・疎外感・一種差別的な視線の中で耐えながらなおも数学を追おうとする1人の人間の生き様が強烈な印象を与える。<br>主人公ジョン・ナッシュが精神疾患だということがわかってから、その壮絶な闘いが明らかになる。しかしその事実が観てる側にわかるのは映画のあとの方なのであって、それまでは幻想・幻覚と現実の区別はない。観ている側は途中まで「その全てが現実だ」と思いながら彼自身と同じ立場で人生を体感するのである。<br>映画の後半になって、やっと&#8221;それは精神的な病だったのだ&#8221;ということを知るのだが、そのショックはいかばかりか考えられないほどだ。衝撃的事実を目の当たりにして、ジョンの妻同様に観ている私たちもまたうろたえながら、彼の絶望をただ案じるしかない。彼を支え続けた妻の深い愛もまた感動的ではあるものの、それ以上に孤独の端に追いやられた彼の寂しさと絶望がたまらなくなる。</p>



<p>全てをネタバレするつもりはないが、なんといっても「万年筆の場面」はグッと迫り来るものがとめられない、と一言だけ添えておきたい。<br>この映画で、人生とはどういうものか、何が美しいのかと常に問われ続けている気がする。</p>



<p>前回、映画『ブーニン』についてのエッセイを書いたばかりだが、今回も偶然ではあるが共通している“美しさ&#8221;がある。<br>人生の生き方の美しさ、だ。<br>それは単に&#8221;キレイ“ということではなく、信じる道を泥にまみれながらであっても、たゆまず歩み続ける人間の潔さ、のことを意味する。<br>しかも、どちらの主人公も、背負わされた過酷すぎる運命を従順に受け止めて、ただ粛々と信じる道を歩むのだ。たとえ誰にも理解されなくとも、たとえ失敗ばかりが続いてしまっても、そして目指そうとする方向に光がなかなか見えてこなくても。</p>



<p>観た後に、自分の悩みや疑問はなんてちっちゃなことなのだろうと、なんだか勇気をもらえてまた、前を向いて歩いて行こうと思えるのだ。</p>
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			</item>
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		<title>ブーニン　天才の絶望と栄光</title>
		<link>https://marikosenju.com/essay/202605/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[admin]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 30 Apr 2026 23:00:00 +0000</pubDate>
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					<description><![CDATA[スタニスラフ・ブーニン。19歳でショパン国際コンクール優勝の天才ピアニスト。初めて会ったのは1986年、ブーニン20歳、私が24歳の時だった。当時ブーニン大フィーバーを受けて、モスクワにブーニンを訪ねた。私自身も丁度演奏 [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
<p>スタニスラフ・ブーニン。19歳でショパン国際コンクール優勝の天才ピアニスト。<br>初めて会ったのは1986年、ブーニン20歳、私が24歳の時だった。<br>当時ブーニン大フィーバーを受けて、モスクワにブーニンを訪ねた。私自身も丁度演奏活動をやめていた時期から再開へ踏み出した時。キャスター磯村尚徳さんの隣で報道番組の中の文化面を担うお手伝いを始めたばかりだった。<br>モスクワへNHK報道番組の取材する側として出向いた私は、カメラマン、音声スタッフと番組ディレクター、そしてコーディネーターと共にブーニンを訪ねた。内容としてはインタビューと共演(チャイコフスキーのメロディ)という流れだった。<br>当時ソビエトの厳重な管理下にあったピアニスト・ブーニンは、言葉一つを発するにも周りの監視者のチェックが入りながら、のことだった。かなり緊張した面持ちで単語を選んで声に出しているような、ピリピリした空気を感じた。<br>とても繊細なブーニン、ピアノを奏でれば自在に解放的表現を音にする天才肌、、、それが私の持つブーニン像だ。<br>あれから40年。<br>ブーニンフィーバーのあと亡命したらしいという噂は聞いていたし、日本にも住居を持ったことも噂で聞いていた。<br>それでもブーニンの名前をしばらく聞かなくなって10年くらい経つだろうか。最近の学生さんたちはブーニンをどの程度認知しているのだろう、と考えていたところ、<br>『ドキュメント映画をやってるわよ』と友人から教えてもらって、時間を見つけて早速行ってきた。<br>驚いたのは、身体にトラブルを抱えて歩く白髪ブーニンの姿だった。<br>スクリーンに映し出されたブーニンは、すっかり老紳士になっていた。<br>静かな佇まい、やっと歩けるほどの歩行を右手に持つ杖が助けている。「私は今、ただ年老いた男だ」と静かに話して、哀しげに微笑む。</p>



<p>あの20代のとき、アイドル底抜けの人気はブーニンを国技館でリサイタルを行わせるほどだったのだ。若い女の子たちの圧倒されるような声援、いや声援なんてものじゃない、あれば叫び声だった。しかしそれが当たり前のようなブーニンフィーバーの時期があったのだ。<br>そのことを想うと、まるで表と裏のような、スクリーンの中の彼の姿。壊死したと医師が説明する左足、&#8221;その部分&#8221;を切断したために短くなった&#8221;代わりの長さ&#8221;を、特注の分厚い靴底が補う。<br>当初痺れて動かなくなった左手は、使い過ぎによる、いわば関節の摩耗のようなものだった、という。<br>演奏活動を休止して９年。長い。<br>ブーニンはしかし音楽を愛していたし、ピアノを奏でたい心は残っていた。自然と、その指をテラスの欄干に動かしている。<br>その姿をそっと見ていた夫人、榮子さんの後押しによってブーニンは再びステージへ戻ろうとする、その苦悩の道をカメラはたどっていく。</p>



<p>弾けたはずの音が弾けない。<br>天才と言われた演奏そのものが、丸ごと身体から奪われている。左手ももとのようには動かず、左足は分厚い靴底の下からペダルを踏まなくてはならない。もとのように演奏することは不可能な身体にブーニンは絶望しながらも前を向く。<br>これはフィクションではない、ドキュメントだからこその迫力と感動、ブーニンの心がそのまま見えてくるようだ。<br>『自分の弾きたい音楽があるのに、弾けない。すぐそこにあるのにこの手に届かないんだ』悲しく微笑む。『僕はそのうち自分のためだけに弾くようになるのかもしれない』時に弱気になりながら、そしてまた鍵盤に向かう。<br>何回も映し出される練習風景では、弾けないと苦しみ絶望し、泣きそうなブーニンがそこにいる。<br>何回も流れてくる本番のステージでの演奏姿も、必死に奏でようとするピアニストの苦悩が映し出される。そして演奏後の『どの曲も弾けなかった。まだまだ熟練が必要です』とのことば。生きていることが苦しみだとつぶやくように語る彼の表情、いたたまれない。<br>ピアノに向かって魂を絞り出すような表現、しかし時折力強い響きが会場全体に鳴り響く。彼の心底にある誇り、なのだと思う。<br>ショパンの『雨だれ』を弾いている時の演奏中、彼の顔が大きくアップにされると、絶望を音の中に感じながら尚も紡ぎ出す&#8221;向かっていく”彼の心が見えてくるのだ。<br>私は涙が止まらなかった。</p>



<p>『完璧に弾けなくとも、人に感動を与えられる美しい演奏がしたい』と、ブーニンはつぶやいた。<br>私は心の中でブーニンに語りかけた。<br>&#8220;私は感動しました、ブーニン。<br>あなたの存在そのものが音楽、あなたの細胞そのものまで音楽なのです&#8221;</p>
]]></content:encoded>
					
		
		
			</item>
		<item>
		<title>春の優しさ</title>
		<link>https://marikosenju.com/essay/202604/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[admin]]></dc:creator>
		<pubDate>Tue, 31 Mar 2026 23:00:00 +0000</pubDate>
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					<description><![CDATA[春になると思い出す。幼稚園へ通う道すがら、母と手を繋いで歩いた桜並木。足を高くあげながら飛び跳ねて踏んだスキップ。 タッタラッタター、タッタラッタター&#x1f3b5; 母の即興による歌声は今でも忘れない。ウキウキするそ [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
<figure class="wp-block-image size-large is-resized"><img decoding="async" src="https://marikosenju.com/wp2020/wp-content/uploads/2026/03/essay202604-768x1024.jpg" alt="" class="wp-image-5649" width="384" height="512" srcset="https://marikosenju.com/wp2020/wp-content/uploads/2026/03/essay202604-768x1024.jpg 768w, https://marikosenju.com/wp2020/wp-content/uploads/2026/03/essay202604-225x300.jpg 225w, https://marikosenju.com/wp2020/wp-content/uploads/2026/03/essay202604.jpg 800w" sizes="(max-width: 384px) 100vw, 384px" /></figure>



<p>春になると思い出す。<br>幼稚園へ通う道すがら、母と手を繋いで歩いた桜並木。<br>足を高くあげながら飛び跳ねて踏んだスキップ。</p>



<p>タッタラッタター、タッタラッタター<img src="https://s.w.org/images/core/emoji/14.0.0/72x72/1f3b5.png" alt="🎵" class="wp-smiley" style="height: 1em; max-height: 1em;" /></p>



<p>母の即興による歌声は今でも忘れない。<br>ウキウキするそのリズムに乗って、私は益々膝を高く高く上げながらスキップのステップを踏む。きゃっきゃと笑いながら母の手につかまって飛び上がるあの時の、たおやかな日差しと幸せな心が記憶に刻まれている。<br>母の手はふかふかしていて暖かくて、私を守ってくれる優しい手。その手を母は私のスキップに合わせて上下に大きく弛ませながら、それはまるで母が共にスキップをしてくれているような楽しい気持ちになったものだった。<br>時折ふく風はゆるりと頬を撫で、桜の花びらがひらひらと舞って、肩に帽子にふわり着地する。淡いピンク色の薄く繊細な桜の花びらを、私はそっとハンカチに包んで大切に持ち帰った。</p>



<p>春は私が生まれた季節でもある。<br>おめでとう、という明るい言葉の響きと共に、きっと何かいいことがある、という根拠のない予感が私をワクワクさせた。<br>それは幼稚園や小学校、中学校、高校大学の新しい年度の始まりや入学式にも重なって、<br>ドキドキする緊張と日差しと共に差し込んでくる希望の気持ちは、年々心の中に刻まれ、重なり、積もってきた。<br>年齢と共に悲しみの記憶や絶望感を残した春を経験すると、風に散る桜の花びらに胸を締め付けられるような切なさを隠せなくなってきた。<br>希望と絶望、喜びと悲しみ、入り交じった心模様は周りの人になんだか優しくしたいと感じてしまうのだ。<br>気温も暖かくなって道端に残っていた雪解けが始まり、それまでに嫌なことがあったとしても、悩みや苦しみがあっても、春はリセットの季節のように感じてきた。日差しもますます穏やかに、希望という言葉が浮かんでくる優しい季節ー。</p>



<p>昨今の気候変動で、四季折々の移り変わりに心を預けることがなかなか出来なくなってきたように思う。加えて世界情勢の悪化、いつまでも終わりが見えないむごい戦争、それは紛れもない殺し合い。ニュースで映し出される破壊された建物、灰になった美しかった街、嘆き悲しむ人々、呆然と立ち尽くす傷だらけの子供の姿、、、。<br>ニュースの場面が変わって、日本で桜を愛でる私たちの姿が客観的に放映されると、とても心苦しい。桜が満開に咲いて優しい気持ちになるほど、こうしている今も戦禍で苦しむ方々に対して申し訳ない想いがふつふつと湧いてくる。<br>世界中の人が花を愛でて、音楽を楽しみ味わい、たおやかな風に包まれる当たり前の日常が一刻も早く戻ってくることを、心から願ってやまない昨今、春の始まりとなっている。</p>
]]></content:encoded>
					
		
		
			</item>
		<item>
		<title>弓の不思議</title>
		<link>https://marikosenju.com/essay/202603/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[admin]]></dc:creator>
		<pubDate>Sat, 28 Feb 2026 23:00:00 +0000</pubDate>
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					<description><![CDATA[ヴァイオリンというと、やはり楽器本体のことなので、弓についてはなかなか注目されない。弓というのは、楽器を擦ってるあの&#8221;棒“のことだ。見るからにただの木の棒、と見えるのか、あの細い棒で何か違いがあるのか？とよく [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
<p>ヴァイオリンというと、やはり楽器本体のことなので、弓についてはなかなか注目されない。<br>弓というのは、楽器を擦ってるあの&#8221;棒“のことだ。見るからにただの木の棒、と見えるのか、あの細い棒で何か違いがあるのか？とよく質問を受ける。そう思われても当然かもしれないほど、見た目にたいした違いはない。<br>楽器の王様、または女王がストラディバリウスであれば、弓もそれに当たる素晴らしい古弓があり、それをトゥルテという。トゥルテはフランスの弓製作者の名前でフランソワ・トゥルテと言い、やはり2〜300年も昔の人だ。そんな昔に作られた弓が、楽器のように今や希少価値が上がっているのは、同じレベルの弓がなかなか製られないから、ということになる。<br>なんとかく一般的には、もしストラディバリウスがあれば、それを擦って音を出す方の弓は、まあどんな弓でも良いのでしょ、と思われがちかもしれない。が、実は弓こそが繊細な表現を自在に操れる魔法の棒なのだ。<br>私がそのことに気がついたのは15歳の頃だった。<br>恩師であるヴァイオリン界の巨匠・江藤俊哉先生からこう言われた。<br>「あなたはたいした楽器を持ってないからね、それ以上の“音色の変化“は難しいでしょうねえ。僕の要求する“音色の変化“を研究して欲しいから、この弓を使いなさい」<br>おもむろに楽器ケースから出された弓は、その“木の棒“自体が艶々に光っていて、私の持ってる弓よりもずっと細く、反りがあった。折れてしまいそうな細さの弓の真ん中がキュッと反っていて、その先のほうが更にもっと怖いほど細くなっていた。見るからに繊細なその弓を、先生から手渡される時、手が震えた。間違って落としたら大変なことになるという緊張から、身体が固くなったのを覚えてる。<br>何しろ弓はとても折れやすい。先の方の細くなってる部分が特に、ほんの少しの衝撃でもポキッと折れてしまうことがあり、その衝撃というのは例えば飛行機の振動や車の振動などでも波長が合ってしまうと折れてしまうタイミングに重なってしまう、と聞いたことがあった。一度折れたら例え綺麗に繋ぎ合わせても元の音色は出せない。<br>その折れやすい繊細な弓を、中学生の私はその手に取り、当時なんの名前もないような楽器を鳴らしてみたときの驚きはなかった。<br>弓から伝わる振動がそれまで味わったことのないような細かい震えとなって右手に伝わる。その震えが「楽器に張ってあるガット弦(羊の腸)」に確かに伝わっていて、一音いちおん、確かにキューティクルの摩擦をこの右手に感じた。その感覚は右手の指、一つ一つに伝わり、この時はじめて、先生の要求がわかった瞬間だった。それは何かと言えば、先生は<br>「右指の薬指を意識して音色にコクを持たせて！」とか<br>「ここは右手の人差し指が力を加減すれば音色が変わるはず」とかおっしゃっていたのだ。<br>その意味が全くわからなかった私は日々研究するも、なかなか江藤先生のOKがもらえなかったのだった。<br>そうか！このことだ！<br>私は見えてきた感覚を知って、とても興奮した。<br>新しい扉を発見したような希望が現れて、右指の一つ一つの役割を意識しながら演奏する楽しさに夢中になった。</p>



<p>さてあれから50年近く経つ今、私は弓を4〜5本持っている。<br>それぞれが個性があり、その特徴がストラディバリウス・デユランテイの様々な音色の表情を多種多様に引き出す素晴らしい相棒になっている。<br>弓はコンサートホールによって変える。<br>ホールの響きとの相性がまたとても大切になってくるのだ。<br>何本か持って行きホールで弾いてみると、例え毎年弾いてる慣れたホールでも、季節によっても相性の良い弓が変わるのだ。<br>温度や湿度によって変わってくるのは楽器のみならず、弓もまた、である。そして楽器のコンディションが微妙に変化すれば、それに合う弓もまた、当然変わる。<br>更に、弓に張る馬の尻尾(白馬)がまた重要なのだ。<br>馬の尻尾は、弓の毛になるために特別に飼育されてる馬だったりする。そんな馬は、モンゴルの馬が今は主流であるが、その他イタリア、カナダ、フランス、、、と馬によって、馬の尻尾によって、尻尾のキューティクルによって、音色が違う。それも季節によって「絶対この馬」とはいかず、「どうも今回はイタリアの馬が良い」とか、「この季節はモンゴルの馬の尻尾に協力してもらおう」とか、あるのだ。それはもう頭を抱えるほどの組み合わせ、、、、！<br>だから、面白い、だから楽しいし、奥が深いので、いつまでもどこまでも研究しながら演奏する醍醐味がある。<br>さて今度は、どこのお馬さんに尻尾を拝借しましょうか？</p>
]]></content:encoded>
					
		
		
			</item>
		<item>
		<title>ある日の葛藤</title>
		<link>https://marikosenju.com/essay/202602/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[admin]]></dc:creator>
		<pubDate>Sat, 31 Jan 2026 23:00:00 +0000</pubDate>
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					<description><![CDATA[今年は特に寒く感じる。週に何回かは泳ぐようにしているものの、こんなに寒いと何だかんだと理由を考えてサボりたくなる。行くまでがまず難関だ。冷たい風が顔に吹きつけると、家から出てから即座にきびすを返すように戻ろうかと考える。 [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
<p>今年は特に寒く感じる。<br>週に何回かは泳ぐようにしているものの、こんなに寒いと何だかんだと理由を考えてサボりたくなる。<br>行くまでがまず難関だ。<br>冷たい風が顔に吹きつけると、家から出てから即座にきびすを返すように戻ろうかと考える。<br>なぜ、そこまでして私は泳ぎに向かうのか。<br>自問自答が始まる。<br>続けたいからだ。演奏を、ステージの上で集中して出来るように、体力を維持していかなければならない。<br>身体は年齢と共に衰えていくのは仕方がない。その現実をあらがって、筋肉が萎えてしまわないように鍛えることが、ヴァイオリン練習と同じくらい大切なことになってくる。<br>もしかして練習よりも身体を維持させることのほうが、今となっては先決問題かもしれない。<br>そう思うと、重い足も一歩一歩ジムへと向かう。吹きつける冷たい北風、、、またもや心が怯む。今左に曲がってすぐまた左に曲がればうちに帰れる。今日はやめちゃおうかなあ、寒いし風邪引いたらいけないなあ、、などと自然、行かない理由が湧いてくる。<br>いや、泳ごう、泳がなくても水中歩行だけでも良いから、、、。<br>そうやって片道10分ほどの距離を自分との戦いに負けそうにながらてくてくと向かうジムへの道。<br>とうとうジムにつけば、さあついたぞと意気込むよりは、あら着いちゃったわと往生際が悪い私。いざ、ジムの中へ入ると予想外に多くの老若男女が黙々と己を鍛えている。偉いなあ。みんなこの寒い中、あの方もこの方も、、、と、それぞれのお顔を見つめながら、自分自身を反省する。私もいざ水の中に入り、あとは何も考えずに泳ぐ、泳ぐ、泳ぐ、、、。ひたすらに、往復を繰り返し、聞こえるのはバシャバシャという水をかく音、バタ足の音、、、。私より年配の方々も、ひたすら泳ぎ続ける隣のレーンを横目で見ながら、クロール、背泳ぎ、平泳ぎ、、、。<br>辛いのは初めの数百メートルだ。500メートルを超すと、不思議といくらでも泳げるような呼吸になり、もう一往復、もう一往復、、、結果１キロを超して、まだまだ泳ぎたい気持ちにもなる。時間を見ながら適当なところでやめると、泳いだあとはいつも清々しい。<br>ヴァイオリン演奏で凝り固まった肩や背中、腕までが柔らかくほぐれて軽くなっている。<br>帰宅したらまた頑張れそうだ。<br>この冬、弱い自分にあらがいながら、、、早く暖かくならないかなあ。</p>
]]></content:encoded>
					
		
		
			</item>
		<item>
		<title>デュランティと共に</title>
		<link>https://marikosenju.com/essay/202601/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[admin]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 31 Dec 2025 15:00:00 +0000</pubDate>
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					<description><![CDATA[デビュー50周年の2025年を無事に終えて、新たなスタートを切る。 2026年はどんな年にしようかと思いを巡らせながら、ふと愛器・デュランティのことを思った。そういえば私のストラディバリウス・デュランティは今年310歳( [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
<p>デビュー50周年の2025年を無事に終えて、新たなスタートを切る。</p>



<p>2026年はどんな年にしようかと思いを巡らせながら、ふと愛器・デュランティのことを思った。<br>そういえば私のストラディバリウス・デュランティは今年310歳(1716年製)の歳を迎える。<br>私の元へやってきたのは2002年なので24年も経つのか、と感慨深い。<br>木材というのはすごい。樹木そのものの生命力は計り知れないものがあり、一定の音振動を与え続けることによって、音色も練れてくるのだ。<br>改めてデュランティの歴史を辿ってみる。<br>このストラディバリウスを手にした人物は、珍しいことに製作されてからの310年間で４者しかいない、その4者目が千住家、となる。そのことを考えると、今更ながら身が引き締まる思いだ。<br>最初の所有の欄に当時のローマ法王の記載があるため、このストラディバリウスはその後数奇の運命を辿ることになるのだ。当時のローマ法王が亡くなったあと、その側近がフランスのデュランティ家に運び入れて、まるで隠されたように200年間の長い長い歳月、世に出ることがなかった。ひっそりと沈黙していたこのストラディバリウスは、200年の後、デュランティ家が滅びる直前にスイスの富豪の元へ渡される。そこでまた80年間、再びひっそりと身を隠すことになる。<br>その富豪のご主人が亡くなる時の遺言に、「このままではヴァイオリニストに弾かれないままになってしまう。是非次の所有者はヴァイオリニストの手に渡るように」とのことから、水面下で声がかけられた。<br>そしてあろうことか、はるばる海を渡り長旅を経てやってきたのが東の島国日本、当時住んでいた横浜市青葉区、その千住家(笑)となった。<br>つまり1716年にアントニオ・ストラディバリによって製作されてからずっと、プロのヴァイオリニストの手にいっさい渡ったことがなく、全く弾き込まれてないことがわかった。<br>なのでこのストラディバリウスは、まるで新品のような状態として、そしてバロック時代のチューニングのまま、私の目の前に現れた。<br>しかし私がこのストラディバリウスに出会った時には、そんな経歴は全く知らされてなかった。<br>ストラディバリウスはそれまでも何丁か見たり弾いたりしてきたので、だいたいどんなものか、という想像のもと出会うことになった。<br>が、驚くことに私の想像・予想を遥かに超える、言ってみれば全く別物の存在としての強烈なオーラがあり、それまで聴いたことのない音色だった。それは「音」というより、何物かの「声」と表現した方が良いのかもしれない、と思った。見たこともない、出会ったこともない「いきものの声」。不思議な恐ろしささえ感じてゾクゾクしたのを覚えてる。<br>そんな「存在」に出会ってしまった私は、ヴァイオリニストとしての残りの我が生涯を全て捧げてもまだ足りないほどの「存在」だと確信した。<br>それからの私はこの新品同様のストラディバリウスを弾きこなそうと努力した。<br>弾いて弾いて、弾き込んで、一日中弾き続け何ヶ月も何年も必死に向き合った。しかしなかなかデュランティを弾きこなせず、この身体が参ってしまうほど酷使している自分に気づいた時、身体をデュランティ仕様に改造しなければならない、と決心した。<br>「毎朝生卵３つ飲み」から始め、様々な栄養食を摂取することは「美味しいから食べたい食事をする」こととは意味が異なった。更に週3〜４回の水泳は1〜3キロで身体を鍛える。<br>そしてやっとデュランティが弾ける身体に改造することが出来た。デュランティと共に歩き始めた世界は未知の世界であり、永遠に広がるイメージはワクワクするほどなのだ。<br>樹木はすごい。<br>音色はどんどん変化して、まるで冷凍されていた生き物が解凍されていくに従って体温が上がり脈拍が打ち始める如く、デュランティは血色良く生き生きとメロディを歌い始めた。<br>デュランティと共に舞う空間は、目の前に広がる永遠の可能性を秘めている。</p>



<p>ステージ人生51年目が始まった。<br>このデュランティと共に体験する音の世界、次の扉を開くとどんな景色が待っているのか、その景色をみなさまと共に体感出来ることが私の歓びだ。</p>
]]></content:encoded>
					
		
		
			</item>
		<item>
		<title>ありがとうデビュー50周年</title>
		<link>https://marikosenju.com/essay/202512/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[admin]]></dc:creator>
		<pubDate>Sun, 30 Nov 2025 23:00:00 +0000</pubDate>
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					<description><![CDATA[50年という区切りは特別の意味がある、と常々感じていた。 45でも55でもない50、という区切り。終わりであり始まりでもある新たな区切り。 だからこそ2025年のデビュー50周年は集大成として捉え、自身にとって重要な一年 [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
<p>50年という区切りは特別の意味がある、と常々感じていた。</p>



<p>45でも55でもない50、という区切り。終わりであり始まりでもある新たな区切り。</p>



<p>だからこそ2025年のデビュー50周年は集大成として捉え、自身にとって重要な一年だと感じた。</p>



<p>そのため色々な楽曲、様々な演奏会やイベント、私自身思い入れのある作品を是非多くの皆様に聴いていただきたくて、実にたくさんのコンサートが企画された。そんな一年間がもう終わりに近づいている、、、。</p>



<p>50周年の最初に行った演奏会は、イザイの無伴奏全７曲(未完成作品を含む)だった。あれはやはり本心、大変だったなあ！とつくづく。テクニックや暗譜もさることながら、歳を重ねての体力と精神力、持続力。愛するイザイをみなさんに聴いていただきたいというストレートな想いから企画した無伴奏演奏会だったのだ。</p>



<p>コンチェルトリサイタルはメンデルスゾーンとチャイコフスキー、この２曲は私の演奏家としての50年をポイントで抑えてきた外せないコンチェルトだったので、2025年の今年発売に向けて、50周年記念アルバムとしてレコーディングをし直した２大コンチェルトでもある。</p>



<p>明兄とのオペラアリアコンサートも特別なものだった。全曲明兄のオーケストレーションによって豪華に編曲された名曲オペラアリアを、歌うように奏でる嬉しい試みだった。</p>



<p>特に珍しいコンサートとしては、二人の兄と３兄妹によるビッグコンサートも、記憶にふかーく刻まれたコンサートとなった。３兄妹コンサートは25年ぶりであり、25年前に行った時にはまだ３人がそれぞれの専門を生かしきれてなかったように今感じている。その時にもしかし、３人の表現が一つのものとして作り上げることがとても難しく、周りのスタッフの方々はまとまらない意見に振り回されていたような大変さがあった。そして今回３人が一緒に創り出す表現は、想像していたよりも更に更に『産みの苦しみ』が大きかった。これではコンサートが出来ないのではないかというピンチが何度も訪れたし、何より３人のそれぞれについているスタッフが(スタッフだけのミーティングとして)何度も何度も集まって悩んだり相談したり、とずいぶん苦しめてしまったと思う。そのおかげでまさに唯一無二のパーフォーマンスとなった『千住家の軌跡』コンサート、もう2度と出来ないコンサートなのではないかと思うと、今となっては実に名残惜しい感情も湧いてくる。</p>



<p>クライスラー生誕150年記念オールクライスラーリサイタルも格別なものだった。普段演奏している作品半分、ほとんど演奏会で披露してない作品半分、クライスラーの内面の繊細さや深みが色濃く浮かび上がるようなプログラムになったと思う。</p>



<p>その他色々な曲を取り入れた各地でのリサイタル、お話を聞いていただくための講演会もちらほらと。</p>



<p>そしていよいよバッハ無伴奏全６曲演奏会は11月に京都で既に全６曲、北九州で３曲のリサイタルを行っていて、東京が最後のバッハ無伴奏全曲演奏会となる。</p>



<p>東京公演ではこの50年の葛藤と喜怒哀楽が染み込んだ感慨深い響きになるのだろうと感じている。</p>



<p>バッハが終わる頃になると街は既にクリスマスのイルミネーションですっかり彩られているのだろう。</p>



<p>クリスマスの雰囲気も取り入れたコンサートが各地で続いて、12月は最後まで感謝を込めた演奏にしたいと思っている。</p>



<p>思えば、50周年のために大変頑張ってくれているマネージャー、マネージメント、コンサートを企画したり運営してくださってる各地の関係者の方々、ステージで共に唯一無二の音楽を創り上げてくださったオーケストラ、指揮者、ピアニストなどの共演者のみなさん、そして客席から温かい拍手や声援で応援してくださったファンの方々や初めて聴きに来てくださった方々、更にこの50年の間、共に歩み支え応援してきてくれた大切な友達、そして陰でいつも支えてくれていた2人の兄たち、、、、</p>



<p>こうして改めて考えてみると、本当に本当に、沢山の方々に支えられてやっと私がここに居る。やっとこうしてヴァイオリニストとしてステージに立つことが出来ているのだなあ、、、としみじみ、心からありがとうと叫びたい！<br>忘れてはならないのが、今は亡き大切な方々。恩師、親しかった友人・知人、祖父母や父母。そのような存在は、ステージに立つ私にその気配を感じさせてくれていることでエネルギーを貰えている気がする。</p>



<p>さて、12月、いよいよラストスパートのデビュー50周年記念コンサート、各地の皆様、是非聴きにいらしてくださいね！会場で皆様のお越しをお待ちしています。</p>
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		<title>バッハ</title>
		<link>https://marikosenju.com/essay/202511/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[admin]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 31 Oct 2025 23:00:00 +0000</pubDate>
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					<description><![CDATA[ヴァイオリンを携えてステージに立つこの50年、節目節目にあった作曲家はバッハだ。 12歳のデビューのとき江藤俊哉先生と弾いたバッハのドッペルコンチェルト、15歳の最年少優勝した時に私の運命を大きく方向付けたバッハの無伴奏 [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
<p>ヴァイオリンを携えてステージに立つこの50年、節目節目にあった作曲家はバッハだ。</p>



<p>12歳のデビューのとき江藤俊哉先生と弾いたバッハのドッペルコンチェルト、15歳の最年少優勝した時に私の運命を大きく方向付けたバッハの無伴奏ソナタ、20歳の時に挫折したきっかけとなったのは、やはりバッハの無伴奏が弾けなくなったからだし、その後30歳で自信を取り戻せたのもバッハだった。<br>20歳でヴァイオリンを弾かない時期を経て、2年後再デビューしてからの苦しみの7年、というのが私にはある。ステージで思うように弾けない悪夢のような日々は、音楽の神様なのか？ステージに棲む魔物なのか？が『いっときヴァイオリンを手放した私』を許さなかったのだろうと感じていた。そんな辛い時期、長い７年間、もがいても抜け出せない&#8221;焦り&#8221;と&#8221;絶望&#8221;の底なし沼に沈みこんでしまった心に、ただ静かに寄り添ってくれたのもまたバッハだった。私は自分自身のために夜な夜な、ひたすらバッハを奏でていた。<br>バッハの深い祈りに慰められ、救われ、バッハの素晴らしさが心に沁みていった20代を経て心身ともに多少たくましくなっていった私は30歳になっていた。その頃、やっとステージでプロとしての感覚が戻って来たのだ。<br>長い長い真っ暗なトンネルを、バッハの導きを信じて見えない道を一歩、また一歩と足を前に出し、ついに見えて来た光だった。</p>



<p>だからこそ私にとってかけがえない作曲家といえば、まず第一にバッハなのだ。</p>



<p>あの時自信を取り戻すことができた私はその後、5年おきに、バッハ無伴奏ソナタ&amp;パルティータ全6曲(一晩3時間)のリサイタルを行っている。<br>始めたのがデビュー20周年からなので、今年が７回目、となる。<br>毎回何ヶ所かで行うリサイタルだが、聴いてくださる方としても、なかなか、覚悟と体力？が必要かもしれない。<br>私自身、本番へ向けた練習といえば自分の内面と向き合う修行のような日々。心の中をじっと見つめ、自身の弱さを受け入れる日々だ。<br>本番当日、何もない広いステージの中央に立ち、目を閉じ、時空間を超えた感覚になると、徐々に感じられてくる真空状態、、、。<br>今年は11月に京都、12月に東京で全6曲リサイタルを行う。(加えて北九州では3曲選曲による普通の長さのリサイタルが11月)</p>



<p>たやすいリサイタルではない。<br>体力的にも精神的にも、とことん限界に近づく時、ゾーンに入る。<br>本番のステージに立った時、私の心に蘇るのはあの弾けなかった苦しみだ。ミューズか魔物か、右斜め上に気配を感じながらバッハの世界に今年も没頭する。</p>
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		<title>文化賞受賞の喜びに変えて</title>
		<link>https://marikosenju.com/essay/202510/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[admin]]></dc:creator>
		<pubDate>Tue, 30 Sep 2025 23:00:00 +0000</pubDate>
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					<description><![CDATA[横浜の青葉台。1968年、６歳当初、世田谷から横浜に引っ越した当時は山だった。青葉台の駅から子供の足で歩いて20分、山を登るように坂道を上がって行った桜台に我が家が建った。家の裏は実際山で、狸や蛇、山犬がウロウロしていた [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
<p>横浜の青葉台。<br>1968年、６歳当初、世田谷から横浜に引っ越した当時は山だった。<br>青葉台の駅から子供の足で歩いて20分、山を登るように坂道を上がって行った桜台に我が家が建った。<br>家の裏は実際山で、狸や蛇、山犬がウロウロしていた。部屋の窓を開けていると蛇が入るから閉めなさい、と日常言われていたのも自然なことだった。その山を兄2人と共に探検するのが私は好きだったし楽しかった。<br>しかし通っていた学校までは乗り継ぎ乗り継ぎで約2時間。それで足腰が鍛えられたかもしれない。<br>走って学校に行き、走って家に帰っていたその習慣から、私は常に今でも走るようになったのだ、と考えている。<br>そんな我が家で私がヴァイオリンを練習するときには、家の扉を全部開けて大きな空間を作り、大きな音で練習する。それを母が家事をしながら聴いていて大きな声で気がついた感想を言う、なんと騒がしかったことか、、、。更に練習といえば難しいパッセージを何百回も何千回も行うことによって身体で覚えていくわけだ。野球で言えば千本ノック、、、スポーツなどの訓練と違うのはとにかく音が出ることだ。どんなにかご近所迷惑だったことかと今では申し訳なく、恥ずかしくてたまらない。<br>暑い夏にはまだ冷房の完備がなかった我が家では、窓を全開にして扇風機、タライに氷水、その氷水の入ったタライに足をつけて私は練習に励んでいた。ますますご近所様、ごめんなさい！<br>更に更に、あろうことか、私が一階で猛練習をしているすぐ上で、つまり家の2階では明兄がドラムを叩いた。あの大きなドラムセットが我が家に運び込まれたときには何事が起きるのかと私はびっくりしてみていた。そんな私に目もくれず明兄は嬉しそうにドラムを自分の部屋に設置すると、その日からドンシャン！ドンシャン！！と思いっきりドラムの練習をした。<br>こんなご近所迷惑な話は他にないだろう。寛容に我慢して見守って下さったご近所様にはお詫びの言葉もない。<br>そのおかげで私たちはこうやってなんとかプロの音楽家として活動できているのだ。<br>そのように、私はあの地で育った。<br>ほぼ40年近く、あの土地に根を張るように、私自身があの地点で成長し、まさにあの桜台でヴァイオリニストとして成長した。<br>それなのになぜ引っ越したのか、時折胸が痛む。母の悲しげな顔を思い出す度々、胸が締めつけられる。私は母を連れて青葉台から離れたのだ。一番の決め手は母の体調が悪化して、都内の病院に頻繁に通うようになったからだ。<br>最後の頃には桜台に、母と私の2人だけが住んでいたので、母にもしものことがあったらと考えると不安になった。頼れる近しい人はみな都内にいる。私が演奏旅行でいないときには母は1人きりでいるのだ。1人の時倒れているのではないかと、演奏旅行先から度々電話で確認したり、帰れるものなら最終列車で帰宅を急ぎ、最終フライトに飛び乗ったりした。母を1人にする時間が多いことが私が引っ越しを決めた決定打だった。しかし、、、、もう一つの本心は違う、、、。<br>想い出がたくさん詰まった桜台の土地。その広い家に私1人が残されたらどうしよう、、、それが心の奥底にある本心だった気がする。誰もいない想い出の我が家に1人で住むのは寂しくてたまらない、と思った。濃い想い出が壁に、空気に、床に、土地に、いたるところに染み付いていて、私は耐えられない、と悲しみを想像した。<br>その悲しみから逃れるように渋る母を連れて、2人で引っ越した都心で2人の生活は始まった。<br>しかし私の脳裏には青葉台を離れるときの母のあの悲しげな表情が、拭いきれず、新しい都心の住まいに身を置く母をチラリと見るとなんとも居心地の悪そうな様子が見てとれた。<br>新しい住まい、新しいマーケット、新しい土地の全てに慣れ得ずに居心地悪そうにしていた母の顔を、私は気が付かないふりをして過ごした。今にきっとすぐになれるはずだ、と。<br>「わたしが引っ越すには歳をとりすぎたね、、、」ある日ポツンとそう言った母の言葉が時折思い出され、胸が苦しくなる。そして母はガンで亡くなった。<br>私の心は青葉台に頻繁に帰る。<br>夢の中で、イメージの中で、音楽を奏でているステージの上で、父母の想い出の中で、祖父母との想い出の中で。<br>そんな今年2025年、私はデビュー50周年を迎えている。そしてそんなこの秋に、思いがけないプレゼントの知らせが横浜市から届いた。</p>



<p>横浜市文化賞受賞。</p>



<p>私の故郷・青葉台。私の全てが創られた横浜市。<br>ヴァイオリニストとしての猛特訓をした桜台。<br>悲しみも、喜びも、悔しさも、嬉しさも、、、そこにある。<br>国内外演奏旅行から帰ると、涙が込み上げるほど懐かしい横浜の風が、私の疲れた身体を包みこんでくれたこと、忘れない。</p>



<p>横浜、ありがとう！</p>
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		<title>ファン</title>
		<link>https://marikosenju.com/essay/202509/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[admin]]></dc:creator>
		<pubDate>Sun, 31 Aug 2025 23:00:00 +0000</pubDate>
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					<description><![CDATA[「手を大切に」と毎回手紙に書いて送ってくださったファンの方がいた。私がまだ中学生か高校生の頃だったと思う。同年代だったその人は、かなり頻繁にファンレターをくださった。そして必ず「手を大切に」という言葉で締めくくってあった [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
<p>「手を大切に」と毎回手紙に書いて送ってくださったファンの方がいた。<br>私がまだ中学生か高校生の頃だったと思う。同年代だったその人は、かなり頻繁にファンレターをくださった。そして必ず「手を大切に」という言葉で締めくくってあった。時にはたった一言「手を大切に」という言葉だけが葉書に書かれて送られてきたこともあった。細く優しい特徴のある文字だった。<br>母は私と共に手紙を見ながら「いつも心配してくださるのね」と微笑んでいた。<br>それまではそれなりに手を大切にはしてきたつもりの私だったが、毎回の文字を目にしながら「本当に大切にしなければ」という気持ちが強くなっていったのも事実である。度々のお手紙やお葉書に、「手を大切に」と書いてあれば、もっともっと手を大切にしなければ、と意識的に一層気を使うようになったものだ。<br>「手を大切に」という&#8221;曲線で細長い文字&#8221;の様子は、今でも映像が浮かんでくる。そして改めて自分の手を、指を、労る気持ちになるのだ。</p>



<p>ファンの方々の存在というのはとてもありがたいもので、デビュー以来の50年を振り返ってみれば、多くの方々に支えられてここまでくることが出来たのだとしみじみ思う。<br>学生時代から、ファンレターは、幼くしてデビューした私にとってとても大切な、心待ちにしていた『贈り物』だった。<br>頂いたファンレターを当時から私は大きな段ボール箱に入れて、練習に疲れると取り出して読むこともあった。そして「さあ、頑張ろう」と気持ちを新たにする。<br>そんなお手紙やお葉書には、出来る限りお返事を書き、それが文通のような形で続いたこともあった。が、演奏活動がなかなか厳しくなると、お返事もままならなくなっていって、そのことがしばらく気に掛かっていたことも記憶に残ってる。<br>それでも下さるお手紙の多くには、私を励ましてくださると共に自身も夢に向かって努力している、というそれぞれの姿が綴られていた。</p>



<p>高校球児から、甲子園の砂と甲子園出場の腕章を送ってくださったことも記憶に深い。<br>手紙には、途中で敗退してしまった悔しさと、精一杯頑張った清々しさが丁寧な文字で綴られていて、読んでいた私までも胸が熱くなったものだ。しばらくの間その「青春の証」を私はヴァイオリンケースの小物入れに入れて持ち歩いていた。<br>当時の私は学業とステージの両立が上手くいかずに、日々泣きべそをかきながらの追い詰められた状態だった。そんなこともあって、その高校球児からの『贈り物』甲子園の砂、大切な腕章は私の心の密かな拠り所にもなった。ヴァイオリンケースを開けると入れてある『お守り』のような存在として、その当時の私を元気付けてくれた「砂と腕章」だった。<br>特に12歳というまだ子供の私が、大人の世界に入り込んでしまったことで、そのストレスはかなりのものだった。10代の私に届く同世代の子供たちからの様々なファンレターが、私をどんなに勇気付け、励まして、又は慰めてくれたことか。<br>同じ時代を、分野は別であっても共に頑張る同胞としての存在が、時折道端にうずくまる私の手を引いてくれたことは間違いない。<br>時代は変わり今は手紙がほとんど行き交わない。昔は住所や電話番号は誰にでもわかるほどオープンだったのが不思議なほどであるが、今は個人情報漏れ防止の観点からも、住まいなどはわからないようになっている。</p>



<p>一方で現在での交流方法はSNSである。遅まきながら、私もコロナ禍をきっかけにガラケーからスマホへ買い替えたために、インスタグラムとフェイスブックを始めたことで世界が変わった。<br>SNSで交流出来る多くの方々とのコミュニケーションは、昔の手紙のやり取りのような感覚がある。<br>コンサートにいらしてくださった方からの温かいコメントに疲れも吹っ飛び、「次回のリサイタルに行きます」というコメントを読めばエネルギーが湧いてくる。頻繁にコメントを下さる方の存在は認識するし、初めての方のコメントも嬉しい。<br>なかなかお一人づつにお返事は書けないが、それでも下さる温かな言葉を読めば、すっかり友達のような<br>親近感を覚える。ご年配や年下の方であれば親戚のような近しい感覚が芽生える。<br>最終的にステージに出て奏でるのは私だが、そこまでは多くの人々がこんな私を支え、この背中を叩いて励ましステージへ向かわせる、という感覚が、今、あるのだ。</p>



<p>デビュー50周年も後半に入ってる。<br>心からの感謝の気持ちでステージに立とうと改めて思う。</p>
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